今回の
【墓参ラーのススメ】は
城里町に眠る桜田烈士、
増子金八と鯉渕要人のお墓を紹介します。
まず
城里町石塚に眠る
増子金八のお墓です。
城里町石塚の
稲荷神社を過ぎて右側の
河岸段丘縁の森側に説明板とともにお墓があります。
①増子金八(元水戸藩士、病死/59歳)
桜田烈士の中で事変後、
海後磋磯之介とともに生き残って生涯を全うした人物です。
増子金八が事変に参加するため江戸に上ったのは39歳のとき。
商人体をして、後から江戸に集まる同志達のために、潜伏すべき宿を用意したり、夜毎に桜花を描いた提灯を持って目印とし、浅草観音にお百度詣りと見せかけるなど、厳しい監視下での連絡役を果たしました。
映画の中でもお百度参りしている様子が描かれています。
事変では剣の腕を発揮して奮戦。
襲撃後は腕や肩に傷を負ったが浅手であったため、現場を脱し西国を目指します。
しかし警戒が厳重で叶わず帰郷。
商人と偽りながら捕吏の手を逃れて県央・県北の各地で潜伏。
明治となってから養子先の石塚村の大畠家に潜行しました。
妻の理遠の手引きで、稲荷神社の縁の下に二日間かくれたという話も残っています。
事変後の同士達の処分を知り、自分が生きながらえていることにたいする後ろめたさも感じながら、晩年は読書と狩猟の余生を過ごしたそうです。
事変に関しては語ろうとしなかったとのこと。
現在は妻の理遠と共に安らかに眠っています。
次に
城里町上古内に眠る
鯉渕要人のご紹介です。
鯉渕要人は
諏訪神社の神官でした。
現在、
諏訪神社は鹿島神社(城里町上古内)に合祀されています。
②鯉渕要人(水戸領茨城郡上古内村神官、自刃/51歳)
徳川斉昭公が水戸藩主になると水戸領の神官たちは優遇されました。
やがて水戸藩政に混乱が見られると、尊攘派・斉昭派として政治的な行動も起こすようになります。
距離的にも近い静神社(那珂市)の
斎藤監物に感化を受け行動を供にしたことが多かったそうです。
事変では激しい斬りあいで深手を受けます。
現場を脱し日比谷御門を抜けるが、八重洲河岸で
山口辰之介とともに自刃。
※鯉渕要人のお墓は鹿島神社の隣にあるご子孫宅の敷地内にありますのでご注意ください。写真は特別に許可を得て撮影しております。
次回の
【墓参ラーのススメ】では、水戸市近郊の
那珂市にある
斎藤監物のお墓を紹介しま~す。
テリーでしたぁ。
★過去の記事★
【墓参ラーのススメ】 vol.0 ~墓参りのマナー~
【墓参ラーのススメ】 vol.1 ~常磐共有墓地①~
【墓参ラーのススメ】 vol.2 ~常磐共有墓地②~
【墓参ラーのススメ】 vol.3 ~常磐共有墓地③~
【墓参ラーのススメ】 vol.4 ~常磐共有墓地④~
【墓参ラーのススメ】 vol.5 ~酒門共有墓地~
【墓参ラーのススメ】 vol.6 ~神崎寺~
【墓参ラーのススメ】 vol.7 ~妙雲寺~
【墓参ラーのススメ】 vol.8 ~光台寺・祇園寺~
★お願い★
参拝先の墓地の中には、観光地化されている場所もありますが
一般的に行われる先祖の墓参りをする方がいることがありますので,
「墓地に来ている」という意識を持ってマナーを守り、過去の偉人を称えましょう。